12月の生活表より・・・。

『ソロモンの指環』

 たまの休日、子供を自転車のうしろに乗せて動物園に出かけます。子供の好きなように園内を巡り、疲れたら一緒にソフトクリームを食べて帰ります。
 子供は最初の頃、園内にある乗り物目当てだったのですが、そのうちアンパンマンよりライオンに興味が移り、続いてキリン、しばらくゾウ、次にカバ、最近ではサル山を熱心に見ています。言葉を持たない(ように見える)動物たちにも彼らなりの社会性はそなわっているようです。サル山はまるで人間社会の縮図のようで、いつまでも見ても飽きることがありません。
 動物園に来ると思い出すのは、昔読んだ「ソロモンの指環」(早川書房
)です。著者のK・ローレンツは動物行動学者の科学性と子供のような温かな好奇心をあわせ持って動物を観察し、なんだか妙に人間くさい動物たちの社会を読者に分かりやすく語りかけてくれます。ちょっと引用してみましょう。

旧約聖書の述べるところにしたがえば、ソロモン王はけものや鳥や魚や地を這うものどもと語ったという。そんなことは私にだって出来る。ただこの古代の王様のように、ありとあらゆる動物と語るわけにはいかないだけだ。その点では私はとてもソロモンにかなわない。けれど私は、自分のよく知っている動物となら、魔法の指環などなくても話ができる。この点では、私の方がソロモンより一枚うわてである」
 
 こんな指環があればどんなに楽しいでしょう。しかし、どうやら言葉に頼らないで対話する能力は、魔法の指環などなくても人間なら、というか生き物なら、誰にでも備わっているらしいのです。誰にでも、などと言うと不思議な気持ちがするのは、皮肉なことに私たち人間が言葉をあやつる動物だからなのだと思います。言葉は中枢である「言語野」は右利きの人で99%以上、左利きでも半数以上が大脳優位半球(左)の前頭葉と側頭葉に存在するとされています。脳卒中などでこの場所が損傷すると、「失語症」といって言葉を話したり理解したりすることができなくなります。人間が言葉を失ったら人間性まで失われてしまうような気がしますが、必ずしっもそうではないようです。言語野に限局した損傷では喜怒哀楽は保持されるので、豊かな人間性はそのまま残り、お見舞いに行くとご本人はニコニコしながら碁を打っていたりします。リハビリテーションの先生にお話を伺うと、以外にも優位半球の損傷よりもむしろ非優位半球(右)の損傷の方が回復が遅れることが多いのだそうです。この場合、言語能力が保たれているのでコミュニケーションは一見問題なく行われます。その反面、人格は何となくのっぺりした感じになり、回復のための大切な要素である「感情」が失われるためか、そもそもリハビリの動機づけが難しいとのこと。
 お話しを伺っていると、なんだか身につまされてきました。人間関係のこじれ(←夫婦喧嘩をはじめとして)で最も典型的なのは、相手の言い分が言葉の上ではつじつまが合っていながら根底に感情的な行き違いがある、という場合ではないでしょうか。逆に、感情的にかみ合っているのに言葉が拙いからといって関係がこじれるということはめったにありません。
 子供(ここでは乳児から幼児)は言葉を持たないか、持っていても拙い。しかし、だから喜怒哀楽が感じられないということはまったくありません。というより、子供ほど感情表現の切実な存在はありません。4歳児ともなれば、喜怒哀楽はもとより、遠慮や嫉妬、謙遜といった高度な知性を痛いほど感じるし、言葉が少ない分だけ、いじらしくて泣けてくるほどです。
 動物園で、子供が動物たちを熱心に見ている。その子供を横から眺めている。ソロモンの指環は誰もが生まれながらにして持っているのだなあと思えてきます。ただ、指環の置き場所を、大人はしばしば忘れてしまう。
 子育ては(夫婦生活も?)指環探しの日々です。